ぱからん、はからん

ものつくりの、ものかき。

アイディアの蛇口

インスピレーションがどこから来るのか。

 

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〈夕暮れウェールズの港でひねった蛇口

 

起きている間ずっと

寝ている間ずっと、

アイディアを考え続けているとき。

 

または

「さあ、来い」

と静けさの中で座禅するとき。

 

来いと言ってもまあ来てくれない。

 

蛇口をひねろうが、

その蛇口がまわしすぎて取れようが、

水源がなければ出ないものはでないのだ。

 

インスピレーションは

湧き水の方に近い。

 

それがありそうなところに歩むことや、

波長を合わせることや

水源探知機を作動させつづけること

それは出来る。

 

でも、

出るときは出る。

ああっ

という間に噴き出して、

頭からずぶぬれになりながら

すくおうとする動作も追いつかないままに、

ある程度すくって、

あふれた分は一瞬で土に吸い込まれる。

 

その土に吸い込まれた、

「なにかあのときヒントが垣間見えた気がする」

すくいきれなかった分の水も出てくる。

 

足下の水たまりに目を凝らしても、

吹き上がったとき、光を透かして見えた、

あの「何か」は見えない。

 

だから一回湧けば、

全部がわかるわけじゃない。

 

段階があるのだ。

 

そのあふれた分が地層を通って

また地下で合流して

循環していくように、

 

そしてまた同じ水源から、

違う地上に

顔を出すように。

 

その水源は、

実は自分の中の地下で繫がっている、

ひとりひとりが見える違う成分の流れであって、

外から突如として現れる、

だれかの答えではないのかもしれない。

そっちの世界との仲介者

はじめて文章を書いたのはいつだったか。

 

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はじめて小説を書いたのはきっと小学生だ。

推理小説の読み過ぎで、

よくあるような書き出しの、

これまた書き出しだけで終わる小説だった。

どんな文章だろうと、娘の「傑作」を褒めてくれる母に

私は得意げだった。

 

中学のとき、社会の授業の宿題で、

歴史小説を書くことになった。

原稿用紙何枚分だったか、

主人公に感情移入しすぎて、

号泣しながら書いたのを覚えている。

 

小説の登場人物は、

私の横で

一生懸命その人生を生きるひとりなのだ。

自分と重なることも、

友人と重なることも、

もちろんある。

だけど、その物語のなかで動き出したら、

私は仲介者のひとりなのだ。

 

彼らの話し声を

耳をすませて書き取る。

はっきりと聞き取れないときもある。

自分をその世界にしっかり置かないと、

こちらから覗いていても分厚いガラスを隔てた世界なのだ。

 

彼らの世界にチューニングできたとき、

その会話が自然と聞き取れる。

私は彼らの人生に立ち会えることになる。

 

どうやったら、

彼らの見ている世界を、

鮮やかに感じられるように書けるのか。

間に立ってそれを伝えられるのか。

 

そっちの世界に入り込むと、

私の立っている世界との境界はあやふやになってしまう。

時間の感覚もなくなってしまう。

小説の中が夏なら夏だ。

 

自分で書いているときも、

小説を読んでいるときも。

 

こちらの世界で生きている大切な人たちが、

私を引っ張り戻して、

 

ほら、こっちだよあなたが生きているのは。

 

とやってくれることに、

しばらくたゆたいながら

にやにやするのだ。

 

ゆる回路へのアクセス方法

休むと決めてゴロゴロしていると

出来ること。

 

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〈ゆるい気持ちになる光景〉

 

休むという決断をするには

きわどい時期がある。

 

とはいえ

体調の悪いとき、

無理に活動しても、

とにかく、はかどらない。

はかどらないばかりか、

惨事も起こしかねない。

 

今日は無理はやめて、

布団の中で仕事。

 

家から出ない

出来ないからやらない

と決めた幾つかのことによって、

やれることがしぼられる。

 

焦りや緊張感のなかで

生まれる何かもあるが、

そこではたどり着けない、

頭の中の回路がある。

 

きっと、起きているのと寝ているのの

間に浮かぶインスピレーションを掴もうとした、

アインシュタインやダリの求めた

そこの何かなのだ。

 

やらなくちゃいけないことがありすぎて、

そのたくさんの実を取ろうと登った木の

その大元の幹がぐらついているのが分かっているときに、

一度下におりて地道に、

 

「なんでこの木に登ろうと思ったんだっけ」

「なんでこの木が好きなんだっけ」

「どうしてその実を取ろうとしたんだっけ」

とぶつぶつ言いながら、

根っこに土をかぶせてやる。

 

疲れたまま細い枝に上ったら、

落ちてけがをする。

だから、土をかぶせた根元に寄りかかって

整えるように内側に耳をすます。

 

そうするとリンゴが落ちてくるかもしれません。

腰を落ちつけて

届こうと手を伸ばすことと、

どっしり受け取ること。

 

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〈春の朝のハイドパーク〉

 

ドッジボールが得意な人は、受け取るのが上手い。

腰を落として、

どん、と受け取る。

 

自分の立ち位置がみえていて、

そこを踏みしめて、

動いていれば、

 

受け取るものがそこにあるとき、

縁が届くとき、

そこに落ちついて動くことが出来る。

 

自分はどこに動いていても、

誰かがこちらへ向かって、

いい球を投げてくれたりする。

 

手を伸ばしすぎているとき、

先ばかり見て空回りするときは、

自分の周りを整えてみる。

 

まさに今、

自分に必要だと思うことです。

 

今立っている場所を、

そして行こうとしているどこかを、

もう一回確認してみるのが良いのかもしれません。

ほがらかに想う

大切な人を想うとき。

 

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〈見守ってくれている大きな木/マウイ〉

 

私には大切な人たちがいる。

 

そのみんなが、

それぞれの生活を楽しめていますように、

幸せに過ごしていますように、

わくわくしていますように、

と毎日お祈りをする。

 

大切なひとの大切なひとも、

私の大切なひと。

 

そうやっていくと、

どこまでもつながっていく。

 

自分を大切にすることと、

自分の大切な人たちを大切に想うことは、

とても溶け合ったちかい感情。

 

大切な人をこころから想うとき、

温かい優しい気持ちになる。

そしてその気持ちは自分も大切にしてくれる。

 

マウイの出会い、宇野 靖子さんも、

それを思い出させてくれる大切な人たちのひとり。

愛にあふれた優しくほがらかなメッセージをいつも届けてくれる。

歩きながら大地を通して想いを伝える新しい習慣★|Yasukoの♡Lifestyle コンシェルジュ♡

 

目の前の感情でいっぱいいっぱいになりそうなとき、

自分の周りにいてくれるひとたちに、

距離は離れていても、

繫がっていてくれる人たちに、

そのあたたかい気持ちを

心で伝えてみてください。

もう溶けかけた「できる」の粒

「呼吸をするように出来ることを増やす」

 

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〈空に溶けていくひこうきぐも〉

 

この考え方に出会ったとき、

最初はよくわからなかった。

それが、だんだんと消化できてきた。

 

 

自然にできるようになったとき、

もうそれは自分の一部になっている。

 

だから「出来るようになった」とさえ

意識しないかもしれない。

 

何もすべてが特別である必要はない。

 

1キロしか走れなかったのが、6キロ走れるようになったとか、

わかりやすく格好つく必要はない。

 

新しい場所に越してきて、

今はその道を何も考えずに毎日歩けるようになることも、

その中の一つ。

 

 

逆を返せば、

今の自分が「出来てない」と思うことがあるのは、

そのまえの「出来ている」の上にじつは成り立っていること。

 

今出来てないことは、

少し前を振り返れば、

「想像もできない」ことだったかもしれない。

 

それが今や具体的なものとして、

手応えを感じていること。

 

 

出来るようになったことは、

それはもう呼吸になっていて、

おなじ密度で、自分の中に溶けている。

 

それを増やすこと。

 

そして、

その透明になりかけた自分のバージョンアップを

ほめてにやにやしてみると、

今の「出来てない」がそのうちにどうなっていくかが

楽しみになりそうです。

 

ジェントルなバス

ジェントルバスに

出くわした。

 

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見た目は変わらない。

でもジェントルは、その行動に現れる。

 

 

ドアが開くと、

「お嬢様、どうぞおあがりくださいませ」

と言わんばかりに

ひざまずいて、招き入れてくれる。

 

 

 

平たく言えば、

ぷしゅーっ

という空気音とともに車体が上下する

ノンステップバスだ。

 

でも、それは

車いす用に、

足をあげるのが大変なひとに、

「必要だから」

という何かを越えた、

紳士な振る舞いを感じるものだった。

 

「大切に扱われている感覚」

「大切に扱う(物の)ふるまい」

「ひとはどうやって扱われたら嬉しいか」

 

という視点に気付かせてくれた。