波打ちぎわでジャッジする
正しいか正しくないかは、
私以外の人のたくさんが、知っていると思う。
それぞれが答えを持っている。
だから私は正しいことも間違ったことも
ひとまず言いたい。
デザインとアートの境目で生きてみて、
うんざりしてしまったことの一つ。
国によって、考え方によって境目はかなり違っていて、
どっちにもなりうるとき。
そのときに自分が「正しい」と言い切れるか、
それに何の価値があるのか、誰のためのものなのかが
私が身を置いた「デザインの世界」では事細かに問われた。
だれがジャッジをするのだろう。
きわどさの中で存在する「つくる責任、つくらないのも責任」
目の前の「だれか」のためにデザインすることに留まらず、
何年後かの「想像のだれか」を創造してデザインすること。
仮定を、仮定の上に積み上げるのも責任。
火のないところに煙は立たないという。
ちっちゃい火種を「現在」に見つける。
もしくは煙を認めて、
そして未来に起こるであろう火事を予想して、
今のうちに消すんだろう。
もしくは未来に消せるようにするんだろう。
もはやその火種さえも、作り上げられるのなら、
ジャッジを下すのは、
誰もが自分の中に持っている、感受性と想像力と判断なのかもしれない。
アートとデザインの境界は、一本の黒い細い線では引ききれない。
もしかしたら、波打ち際のように一秒一刻動いているのかもしれない。
ほんとうに境界線はありますか?